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2001.1.12   ◆ 短歌の思い出 (テレビで「お歌会始め」を見て)


(2001.1.12の日記より)  <短歌の思い出>(テレビで「お歌会始め」を見て)

朝いつもの様に遅く起きたらNHKで「宮中お歌会始め」の模様を放映していた。昨日、
小学校以来の友人のHさんとKさんが、「あなたは子供の頃から作文が上手だったし、
大人になってからも朝日新聞の短歌欄にいつも特選に出たりしていたのに、どうして
そっちの方向(文学)に進まなかったの?絵なんか描かなくても…。勿体無いわ。」
と口々に言った。「えー?ちょっと待ってよ。私は、今ようやく、イラストレーター
になったばかりなのよ。」本当に3年間の死に物狂いの挑戦の末に、今、私は駆け出
しのイラストレーターにところなのである。昔から、友人達に「今でもあなたの作文
を思い出すのよ」とか、「文学的才能がある」等と言われたことはあるが、少し作文
が上手なくらいでは文筆家にはなれない。私は、昨日の二人の言葉を思い出しながら、
お歌会を見ていた。

35年前、突然父が亡くなり、その後、しばらくして私は和歌を歌い出した。
『この頃は心澄みしか うつろなる朝に夕べにうたごころ湧く』と歌った様に、別に
作ろうとして作ったのではなく自然に湧いて来たのであった。突き上げてくる何かを
吐き出さなければ苦しいので、もがきながら一つずつ吐き出していったのであった。
朝起きて顔を洗う間にも押し寄せるように湧いて来て、濡れた手で手帳に書き留めた。
朝職場へ出かける前に、既に17首書き留めていたことがある。寝る時は大きな紙と
鉛筆を枕元に置いておき、思い付いたら暗がりで書き留めた。翌朝、そこに書き散ら
された文字の解読が大変であった。苦しくて、これをまさしく業(ごう)というのか
なと思った。すらすらと出る和歌もあるにはあったが、自分の言いたいことが咽まで
出て来ているのに、それに最適な語彙表現が見つからず、納得できないで未消化にな
ってしまい何日も頭から離れない様は、私には業と言える状況であった。数日後突然
その求めていた言葉に行き当たり、形をなした時ようやく喉のつかえが外れて一つの
苦しさが昇華される。連日そのくり返しであった。短歌の心得など全くなかった私が、
「5、7、5、7、7」などと考えるいとまも無く書き取ったものが、勝手に短歌の形に
なっているのを見て、私は日本語と言うものは感情に突き動かされた時、自然にその
リズムになるものだと悟った。学校など無かった万葉人が、父母と別れて防人として
辺地へ赴く時、叉は、戦を終えて戻って来る夫を待つ妻が、心の叫びを歌う時、「5、
7、5…」などと指を折ったであろうか。そうではなく、出てきたものが「5、7、5…」
だったのであると私は思った。
その頃、朝日花壇の特選のトップに載った私の歌に
『ガス自殺遂げし老婆の通夜に行きし母を待ちいて冬の雨聞く』と言うのがあったが、
これは珍しく深刻な歌で、私の歌のほとんどは、幼い頃からの思い出、父母への敬慕
の情、感謝の念、そして幼い日の上海からの引き上げの記憶等、今あることへの感謝
の歌であった。今思えば、大好きだった父の突然の死のショックから、慈しんで育て
て貰った思い出が一気に沸き上がってきたものだった。

その数800首ぐらい作ったであろうか?でも、その大切なノートは今は無い。当時の
朝日花壇の撰者のMさんから、「奈良ホテルで門下生の新年歌会をするので、ぜひ一度
貴女にお会いしたい」とお誘いがあって、私は奈良迄出かけた。出席者で若い女性は、
私ともう1人だけだったので、私は最初から先生に花束を贈呈するという大役を仰せ
つかった。別の日に、又呼ばれて奈良の先生のお宅へ伺った時、「貴女は和歌の才が
ありますが、誰かに師事しているのですか?」と聞かれ、全く無いのでそう答えると、
「では、私が見て上げましょう。」と言われたので、和歌を書き留めたノートをお預
けして帰った。それから、あのノートを返して欲しいと何度かお願いしに奈良迄出か
けたが、後で送りますからとのことで、とうとうそのノートは戻らず、先生は茅ヶ崎
へ引っ越してしまわれた。(もし、先生の書庫がそのままになっていて、遺族の方が
整理される時、私の名前も住所も記入されている筈のそのノートが見つかり、35年振
りに作者の手許に戻るなどと言う、夢の様な出来事がないかなと私は今でも夢想して
いる。)
又先生は、「貴女の歌はどれも特選に値するので毎回採りたいが、全国紙と言う性格
上平均して全国から選ぶ必要があるので、それが出来ないのです」と言われたことも
あった。

しかし、湧いてくる歌が次第に少なくなり、やがて私は苦しみから解放された。私は、
自分が言いたいことを言い終わったことを感じた。短歌に傾注していた日々は、父が
亡くなって1年程してから後の、1年間ぐらいであったと思う。あの業の日々が続く人
を天才と言うのであろうと私は思った。そして、放浪の旅を彷徨って癒されぬ心を詠
い続けなければならないが、凡人の私は言い終わったらそれで終わりであった。
そして、「ああ、私は凡人で良かった」と思った。短歌が自然に湧いてこなくなった
ことは残念だけれど、反面、「助かった!」というのも実感であった。
そしてその後は、多忙な職場生活に明け暮れて、それらのことはすっかり忘れていた。
ただ、今日お歌会始めを聞きながら、この何十年間短歌に無縁だった私が、何故か
「お歌会始めに1度は選ばれたいな」と言う憧れをまだ失ってはいないことに気付いた。


(昼食風景)
手前は「迎春のお飾り」達、
奥に可愛いiMacの
「みどりちゃん」が居る。






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