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2001.2.11       ◆父の最後の手紙


(2001.2.11(日)の日記より)  
   (父の最後の手紙)

朝、妹から電話があり、今日の午後、夫と一緒に我が家へ喪服を探しに来ると言う。
強引である。(=私にとっては…。)妹にとっては、何年も前から頼んでいるのに
忙しがって、なかなか見付けられない姉に、応援に来て呉れる訳であるが…。
妹は、もし喪服がないなら、この2月に半額セールがあるので、新たに買い直したい
のに、私が「捨てた記憶が無いので有る筈だ」などと言うので、買う決心が付かなく
て、困っている。
私も先日から真剣に探しているがまだ見当たらない。そこで、「今日は来ないで」
と明日にしてもらって、午後から、又自分で探す。
震災の前に、妹の舅と姑が相次いで亡くなったので、当時、横浜に住んでいた妹は、
その度に帰神して、実家である我が家で喪服を着て参列したが、横浜に帰る時喪服
一式を置いて帰った。「夏と冬の喪服とぞうりとバッグ」を、一まとめにしてクル
ッと半分に折った風呂敷包みは覚えている。そして、大震災が起こった。我が家は
全壊したので、タンスも戸棚も壊れ、ほとんどのものを捨てたが、喪服は残ってい
るはずなので探したが、まだ見つからない。
大震災の時、取りあえず、ダンボールや衣装ケースに詰め込んだものや、その後、
1年半の避難から戻った時、避難先から持ち帰ったものを、まだ本格的に整理して
いなかったので、丁度整理するのに良いチャンスとばかり、それらと格闘しながら、
遅く迄整理したので、夕食は10時過ぎになってしまった。

船に乗っていた父と、留守宅の母とは、頻繁に手紙をやりとりしていた。次の港に
入港した時渡される家族からの手紙が、船乗りの最高の楽しみなのである。
父の死後、母が大切に残していた父からの手紙は膨大だったが、震災の時も、それ
は捨てることが出来なかった。
その、父からの手紙を整理していると、父の亡くなる直前の頃のものが出て来た。
今から35年程前、オイルショック後の海運不況で、多くの船員が陸に降りなければ
ならなくなり(失職)、歳老いていた父も例外ではなかった。
しかし、まだ独立していなかった子供達への親の責任から、意にそまぬ条件を敢え
て望んで受け入れ、職を得たものの、その不如意な収入の為、将来の不安にかられ、
自分を攻め精神的に落ち込んでいる様子が書かれてあり、胸が痛んだ。
若い頃の華やかな、上海での生活から一変して、戦後の生活は、父にとって不如意
の連続であったと思う。

こんなにも家族を愛して、そして自分は、最後には危険な条件に敢えて挑み、父は
海の藻くずとなってしまった。愛した妻と子供達の為に…。
父の死後、母が人が変ったように荒れた年月があったが、このいきさつへの、何か
いい知れぬ思いがあったのであろう。時々私は、母へ恨みめいた感情がもたげるこ
とがあったが、本当に申し訳なくてたまらない。
感受性の強い私は、困難と戦いながら私達を育ててくれた両親の姿に、幼い頃から
いつも感動していて、ひまわりが太陽を追い続ける様に、父と母の姿を感謝と尊敬
の眼差しで見つめ続けていた。そして、その気持ちは、父母が亡くなった後、今に
至る迄変らないつもりであるが…。
でも、そんな娘にも語り得ない母の心があったのであろう。
父の最後の手紙を読みながら、父母の祈りのお陰で、私達のこの幸せがあることを、
私は思い知った。



昼食

夕食
(今日の夕食は、10時過ぎ
になってしまった。)


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