(2001.2.27(火)の日記より) <母への詫び>
午後から家を出て、麻雀教室へ行こうと、サティ前でバスを待ちながら、先日、
「みずえのひとりごと」の中で書いた、「船乗りで、家には居ないことの多か
った父と、私達子供達の関係が、とても親密なものであったと言う思い出話」
(「父の居た食卓」1月14日分)の項を、何となく思い出していた。
その時、ふと大変なことに気が付いた。それは、それこそ、まさに母のお陰だ
ったのではないかと言うことだった。母が留守宅の子供達の成長振りや、私達
の言動、そして、我が家の日々の生活振りを、家で一緒に生活できない父に手
に取る様に知らせて呉れていたからであったのだと気が付いた。
その上、母は私達に対しても、「お父さんが、お父さんが」と絶えず父の事を
伝えてくれていた。母が、素晴らしいジョイント役をして呉れていたのである。
今迄、それには全く気付かなかった。
母は娘時代の一時期を、小学校の国語の先生をしていたことがあって、読み方、
書き方、言い回し、意味等、何を聞いても博学で、答えられないものは無く、
私は国語の辞書など全く不要であった。(但し、ある時から急に「えー、どう
だったかな?」と言いはじめて、私は聞けなくなったので、がっかりしたもの
であるが…)
母から父に送った手紙は、我が家には1通も残っていないが、おそらく、その
内容は、夫への気づかいに溢れた愛情あるものであり、又、子供の成長振りが
逐一報告された、素晴らしいものであったに違い無い思う。
名文だったかどうかと言う意味ではなくて、心の溢れるものであった筈である。
そのことは、残っている父からの手紙の中の、ひとりひとりの子供への気使い
に反映されて、戻って来ている。
暖かかった我が家の団欒の場、それは、優しくて一度も怒ったことの無かった
父の穏やかさのお陰であることは勿論であるが、それよりも更に、母の大きな
功績であったのだ。父は、母の手紙によって、愛しい子供達のことをつぶさに
知ることが出来、淋しさに耐えることが出来た。父にとって母は、なんと言う
良妻であったことか。
留守宅を預かり、一人で父親の役目も負って子供達を立派に成人させねばなら
ないと言う使命感から、真面目な母が少し厳しくなったとしても当然であった。
「みずえのひとりごと」で自分をさらけ出すことは、苦行ではあるが、やはり、
こうすることにより、自分では今迄見えなかった何かに気付くことがあるのだ
と思った。
ずっと以前、兄の一人が、お母さんは悪妻だと言ったことがあったが、何故か、
その時、誰も反論しなかった。母の一番の理解者を自負し、母を大好きだった
私さえも…。
母は、その時は何も言わなかったけれど、後々までずっと自分を責めていて、
ある時、父の遺影の額の紐が切れて落ちたが、寝ていた自分を直撃せず、離れ
たところに落ちていたと言って、「お父さんは私を許して呉れていたのね」と、
とても喜んでいた。申し訳ないことをしてしまった。許して下さい…。
私は、仏壇の前で声を上げて泣いた。
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夜、NHKテレビの「プロジェクトX」と言う番組で、日本で初めて、炊飯器を
作った家族のことが放映されていた。奥さんが実験役を受け持っていて、厳し
い条件の中で、苦労を重ねて実験した数値を大学ノート数十冊に記録してある。
その筆跡が、まさに母が書いていた字体とそっくりであった。
懐かしくて又、泣きそうになった。
一般に同じ年代の人は同じ形の字を書くものである。そのノートに、何時何分
の「時」を「日偏に寸」と書いてあったが、母も、いつも、そう書いていた。
今では、辞書にも載っていないそんな略字を使う時代があったのである。
2/27昼食
この季節に出る、いかなごの新子を大根おろしか
ポン酢で食べるのが、私の大好物です。
10時に起きて、大好きなパンと紅茶の朝食の後、
すぐ又、昼食を食べて、麻雀教室へ出かけた。
お腹が空いていない様でも、食べて
出かけないと、後でお腹が空いて困るのです。 |
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